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東京地方裁判所 平成4年(ワ)1430号 判決

主文

1  原告が被告に賃貸している別紙物件目録記載の建物の賃料は、平成三年三月一日以降一か月当たり四八万九二二四円であることを確認する。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用はこれを二分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

理由

第一  当事者の求めた裁判

一  原告

1  原告が被告に賃貸している別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)の一か月当たりの賃料は、昭和六三年二月二七日以降五五万一八〇〇円、平成二年二月一五日以降五七万九四〇〇円、平成三年三月一日以降七六万三七〇〇円であることを確認する。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決を求める。

二  被告

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

との判決を求める。

第二  事案の概要

一  (争いのない事実等)

1  原告は、昭和四九年九月二〇日、被告に対して、本件建物を一か月当たりの賃料を三〇万円、賃貸期間を二年と定めて、賃貸して引き渡した(もつとも、右賃貸借契約の契約書においては、原告の夫である甲野太郎が賃貸人として表示されている。)(争いがない。)。被告は、その際、原告に対して、敷金として三六〇万円を預託した。

原告は、右賃貸期間の満了に際して、更新拒絶の意思表示をしなかつたため、右賃貸借契約は、賃貸期間の定めのないものとして法定更新された(争いがない。)。

2  名義上の賃貸人であつた甲野太郎は、昭和六三年二月、被告に対して、無断転貸、改築等による賃貸借契約の解除を主張して、本件建物の明渡し、賃料相当額の損害金の支払い等を求める訴えを東京地方裁判所に提起し、その訴状は、同月二七日に被告に送達された(この訴訟を以下「前訴」という。)。

しかし、東京地方裁判所は、平成三年八月三〇日、解除原因がないものとして、請求を棄却する旨の判決を言い渡した(この項につき、争いがない。)。

3  なお、甲野太郎は、税理士及び会計士であつて、賃貸借契約の締結当時以来、被告の顧問税理士としてその税務又は会計事務の処理に当たつていたが、昭和六二年九月に顧問契約を解約した(争いがない。)。

二  争点及びこれについての当事者の主張

1  賃料増額請求の意思表示の有無

(一) 原告

(1) 原告(名義上は甲野太郎)は、前訴において、被告に対して、本件建物の賃料相当額の損害金として、昭和六二年七月一日以降平成二年二月一四日までは一か月当たり五五万一八〇〇円の支払いを、同月一五日以降は一か月当たり五七万九四〇〇円の支払いを求めたが、これは、賃料増額請求の意思表示を含むものである。

(2) また、原告(名義上は甲野太郎)の前訴における訴訟代理人弁護士水谷昭は、平成二年九月二五日、前訴における被告の訴訟代理人弁護士安藤秀夫に対して、平成三年三月一日以降の本件建物の賃料を一か月当たり七六万七三〇〇円に増額する旨の意思表示をした。

(二) 被告

(1) 原告(名義上は甲野太郎)は、前訴における弁論終結段階になつて、訴えを変更し、その主張のような額の賃料相当額の損害金の支払いを求めるに至つたものであつて、当初からこれと同額の支払いを求めていたものではない。

(2) また、原告(名義上は甲野太郎)の前訴における訴訟代理人弁護士水谷昭は、裁判上の和解の交渉の場において、原告主張のような提案をしたに過ぎないのであつて、これを賃料増額請求の意思表示ということはできない。

2  相当賃料額

(一) 原告

(1) 原告が賃貸借契約の締結以来、賃料の増額請求をしなかつたのは、単に増額請求権の行使を差し控えていたというに過ぎないものであつて、他に格別の理由はない。

したがつて、相当賃料額の判断に当たつては、契約締結当時以来の事情の変更が考慮されるべきである。

(2) 原告は、被告主張のような賃料据置きの合意をしたことはない。

(二) 被告

(1) 原告は、前訴の提起に至るまでは、平穏に契約を更新し、この間、賃料の増額を求めたようなことは一切なかつたのであるから、前訴の提起当時までは、その都度、賃料を一か月当たり三〇万円とすることの合意をしていたものである。

したがつて、相当賃料額の判断に当たつては、最終の合意賃料を前提として、その後の公租公課、土地・建物の価格、此隣の賃料等の騰勢等の事情の変更を考慮すれば足りる。

(2) 原告は、本件建物が老朽化したものであつたところから、被告においてその費用負担をもつて修繕を行う代わりに、賃料を据え置く旨を約していたものである。

第三  争点に対する判断

一  賃料増額請求の意思表示について

1  本件建物の名義上の賃貸人であつた甲野太郎が昭和六三年二月に被告に対して前訴を提起して、本件建物の明渡し、賃料相当額の損害金の支払い等を求めていたことは、前記のとおりであり、《証拠略》によれば、甲野太郎は、前訴の訴え提起当時においては、本件建物の賃料相当額の損害金は一か月当たり七二万九〇〇〇円であるとして、被告に対して右と同額の割合による昭和六二年七月一日以降の損害金の支払いを求めていたが、その後、前訴における鑑定人の鑑定結果に従つて、訴えを変更して、原告主張のとおりの損害金の支払いを求めるに至つたのであることを認めることができる。

しかしながら、賃料増額請求の意思表示は、賃貸借契約の継続を前提として、賃貸人の一方的な意思表示によつて、相当賃料額への増額の効果が生じるものであるから、その趣旨及び形式において、賃料増額請求権の行使として確定的に賃料の増額を求めるものであることが一義的に明らかであることを要するものというべきであつて、単に賃貸人が賃貸借契約が終了したことを前提として賃借人に賃料相当額の損害金の支払いを求め、当該損害金の額が合意賃料額より多額であったからといって、それが賃料増額請求の意思表示を含むものであるとか、それによつて相当賃料額への増額の効果が生じるものということはできない。

したがつて、前訴の提起又は追行によつて賃料増額請求権の行使があつたものとする原告の主張は、失当である。

2  《証拠略》によれば、前訴の甲野太郎の訴訟代理人であつた弁護士水谷昭は、平成二年九月二五日、被告の訴訟代理人弁護士安藤秀夫に対して、昭和六二年七月一日以降平成二年二月末日までの賃料を一か月当たり五五万一八〇〇円に、同年三月一日以降平成三年二月末日までのそれを五七万九四〇〇円に、同年三月一日以降のそれを七六万三七〇〇円に、それぞれ増額することを条件として、本件建物の賃貸借契約を継続したい旨の書面による申入れをしたが、被告は、右の賃料増額幅に不満があつて、これを応諾しなかつたことを認めることができる。

そして、弁護士水谷昭のした右の申入れは、その内容等に照らして、確かに被告がこれを応諾して合意(裁判上の和解)に達することを予定して行われたものであることは明らかであるけれども、そこでは、賃料の増額が他の条件等に係るものとはされておらず、本件建物の賃貸借契約が継続することになる場合においては、従前の合意賃料が不相当になつていて、これを確定期日から確定額へ増額することを求めるものであることが一義的に示されているのであるから、これをもつて賃料増額請求の意思表示があつたというに欠ける点はないものと解するのが相当である(もつとも、これによつて過去の期日に遡求した増額請求の効果が生じるものではないことは、いうまでもない。)。

また、《証拠略》によれば、被告は、当時から、甲野太郎が単に契約書の名義上賃貸人とされているものに過ぎず、真実の賃貸人が本件建物の所有者である原告であることを知つていたものであることを認めることができるから、結局、弁護士水谷昭は、原告の代理人として、前記の申入れをすることによつて、賃料増額請求の意思表示をしたものと解することができる。

二  相当賃料額について

1  先ず、前掲「第二 事案の概要」の「一(争いのない事実等)」欄記載の事実に、《証拠略》を併せると、次のような事実を認めることができる。

(一) 本件建物中、居宅(現況事務所兼居宅)部分は昭和二三年頃に新築され昭和三三年頃に増築されたものであり、倉庫部分は昭和四五年頃に新築されたものであって、税理士及び会計士である甲野太郎がこれを事務所等として使用していたが、昭和四七年七月頃、甲野太郎が他に事務所を開設したのを契機として、被告の代表取締役乙山春夫の実兄である乙山松夫が代表取締役を務める丙川株式会社がこれを賃借して、店舗、事務所又は倉庫としてこれを使用してきた。

ところが、丙川株式会社が昭和四九年七月頃に倒産したため、乙山春夫は、その頃、被告を設立して代表取締役に就任し、事実上丙川株式会社の事業を引き継ぐこととし、同年九月二〇日、本件建物について、被告を賃借人とし、店舗、事務所又は倉庫として使用することを目的として、これを賃借した。

(二) 甲野太郎は、かねてから丙川株式会社の顧問としてその税務又は会計事務の処理に当たつてきたものであり、また、被告の設立手続に関与したほか、被告の設立後においては顧問としてその税務又は会計事務の処理に当たつてきたものであつて、乙山松夫及び乙山春夫と良好な人間関係にあつたところから、原告(その代理人又は使者たる甲野太郎)は、当初の賃貸期間の満了に際してはもとより、その後において何度か賃料の増額が話題になつた際にも、経営が苦しいとする乙山春夫の言に応え、かえつて被告の業績の向上こそを第一義に考えて、被告に対して、強いて賃料の増額を求めたようなことはなかつた。

このようにして、本件建物の賃料は、結局、当初の合意賃料である三〇万円のままで推移した。

なお、被告は、この間、原告の承諾を得て又は無断で、被告の費用負担において本件建物の改築又は修繕を行つたことがあるが、原、被告間において被告がその費用負担をもつて本件建物の修繕等を行う代わりに賃料は据え置くというような合意がなされた事実はない。

(三) ところで、乙山松夫は、昭和五三年八月頃までに、新たに丁原株式会社を設立して、本件建物の一部をその事務所とし、また、自ら及びその家族が本件建物の一部を居宅として使用していた。また、乙山春夫は、昭和五八年一一月頃、別に戊田株式会社を設立して、その本店を本件建物の所在地に置き、本件建物の一部をその事務所として使用するなどした。また、被告は、昭和六〇年一月頃以降、原告から承諾を得た範囲を超えて、本件建物の建築を行い、あるいは、本件建物の敷地にコンクリートを打設するなどした。

原告は、これらの事実を知つて、被告に対して、それが無断転貸、無断増改築又は用法違反に当たるものとして異議を述べ、その善処を求めるなどしたが、被告は、直ちにはこれに対応しなかつた。

このようなところから、原告又は甲野太郎と乙山松夫又は乙山春夫との前記のような良好な人間関係は俄かに崩れ、紛議が発生するようになつて、先にみたとおりの甲野太郎と被告との間の顧問契約の解約、前訴の提起、賃料増額請求権の行使等の一連の経過をたどるに至つたものである。

2  原告が昭和四九年九月二〇日に本件建物を被告に賃貸して以来、原、被告間において賃料増額の合意がなされたことがなく、また、原告においても賃料増額請求権を行使しなかつたのは、以上のような事情によるものである。

そして、賃料増額請求の制度は、基本的には事情変更の法理に基づくものなのであるから、このような場合において、原告が前記のような原告又は甲野太郎と乙山松夫又は乙山春夫との間の人間関係の結果としてこのように長期間にわたつて賃料増額請求権を行使しなかつたという事実を捨象して、当初の賃料額の合意時点から増額請求権行使時点までの間の公租公課、土地・建物の価格、此隣の賃料等の騰勢のみを斟酌して、増額請求権行使時点における賃料相当額を算定するのは相当ではないとともに、前記のような賃貸人と賃借人との間の人間関係は既に崩壊しているのであるから、これを無視して被告の主張するように前訴の提起後の公租公課、土地・建物の価格、此隣の賃料の騰勢等の事情の変更のみを考慮すれば足りるものとするのも相当ではなく、結局、積算方式又は比準方式によつて算定時点における当該建物及び敷地の経済的価値に即応した適正な賃料(正常賃料)を求めたうえで、差額配分方式の考え方に基づいて、これと実際支払賃料との差額のうち、本件建物の賃貸借の経緯や事情を総合的に比較勘案して賃借人の負担とするのが相当とされる額を実際支払賃料に加算し、これをもつて相当賃料額とするのが相当である。

そこで、これを本件についてみると、先ず、《証拠略》によれば、積算方式及び比準方式によつて求めた平成三年三月一日時点における本件建物についての正常賃料額(ただし、被告が敷金として三六〇万円を預託したことを前提とするもの。)は一か月当たり五三万六五三〇円というのであり、その算定のための基礎資料及び算定過程は合理的なものとしてこれを肯認することができる。

そして、右正常賃料額と実際支払賃料額との開差が右のように大きいのは、専ら前記のような賃貸人と賃借人との間の人間関係によつて長期間にわたつて賃料が増額されなかつたことに起因することが明らかであり、平成三年三月一日以降においては、既にそのような基礎が失われているのであるから、これらの事情、その他先に説示したとおりの本件建物の賃貸借の経緯等を総合的に勘案すると、右正常賃料額と実際支払賃料額との差額のうち賃借人の負担とするのを相当とする部分は、右のような特殊な事情のみられない通常の案件以上に多くて然るべきであつて、右差額の八割を賃借人の負担とすべきものと解するのが相当である。

したがつて、平成三年三月一日時点における本件建物の相当賃料額は、一か月当たり四八万九二二四円(300,000+(536,530-300,000)×0.8=489,224)となる。

第四  結論

以上によれば、原告の本訴請求は、本件建物の平成三年三月一日以降の一か月当たりの賃料が四八万九二二四円であることの確認を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却することとして、訴訟費用の負担については民事訴訟法八九条及び九二条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 村上敬一)

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